令和3年 100周年
~伝統と新しさ~
文芸上の真とは
私たちの追及しているテーマです
私たちについて
馬醉木俳句会の歴史概要
1918年(大正7年)、佐々木綾華らによって『破魔弓』(はまゆみ)として創刊され、帝大俳句会を中心に同人を集めたが、1926年(大正15年)に、創刊後に同人に加わった水原秋桜子が改題を提起し、1928年(昭和3年)7月号より『馬醉木』となった。改題時の同人は、水原秋桜子、増田手古奈、日野草城、佐藤眉峰、山口青邨、富安風生、大岡龍男、佐々木綾華であった。
秋桜子をはじめ、当初のメンバーは『ホトトギス』の流れを汲んでいたが、やがて秋桜子を中心に、『馬醉木』は独立した俳句雑誌としての道を進むことになった。
2007年には1000号に達し、記念号が刊行された。
1981年に秋桜子が没した後、『馬醉木』の主宰は長男の水原春郎が1984年から引き継いだ。現在は德田千鶴子主宰のもとに結集して学んでいる。
馬醉木の俳句
季語の力を信じ豊かな自然に学ぶ
『自然の真と文芸上の真』に基づき抒情と調べを大切にした作句をめざします。
今まで築かれてきた伝統を大事にし 新しさとは何かを問いながら作句をしてまいります。.
秋櫻子と書
寄稿: 今田 清三 (2020.5)
秋櫻子と美術、就中、絵画との係りは、『安井曾太郎』を著したことにも代表される。自ら絵筆を手にするほどの絵画への執著はもとより、「天心先生の言」、「龍子画伯の個展」、「梅原氏の絵」、「佐伯祐三氏遺作展」をはじめとする多くの画家に関する論調等からして、その俳句への影響ははかり知れない。秋櫻子の絵画に係る作品は、
巴里の絵のここに冴え返り並ぶあはれ 『岩礁』
雪きびしセザンヌ老残の記を読めり 『霜林』
郁夫菩薩健吉天女いわし雲 『うたげ』
など推挙にいとまがない。
それでは、秋櫻子と書の係りはどうかと考えると、思い当たる作品はとんと浮かばず、その文章も寡聞にして知らない。そこで、『水原秋櫻子全集』第五巻まで二十の句集と『うたげ』を読んだが、次の作品しか見出せなかった。
書初の筆洗ひをり鵯鳴ける 『霜林』
双硯の残る一つを洗ひけり 『旅愁』
袖濡れて硯洗へり大三十日 『晩華』
あきらめし旅あり硯洗ひけり 『餘生』
雙池硯といふなり書初の硯なり 蘆雁(同52)
昭和四十三年以降の「馬醉木」を見ると次があった。
硯洗ふ空しからざる日にせんと 53巻(昭49)
子規朱筆ある句稿なり漱石忌 54巻(同50)
書初や硯盤濡れてよみがへり 56巻(同53)
書初の墨やおぼろに蓬壺の圚 同
書初や墨床呉須の梅一輪 同
秋櫻子の遺した色紙や短冊は数多で、居ながらにして一端に触れ得るものでは、『水原秋櫻子展―現代俳句の出発』(日本現代詩歌文学館)があり、つぶさにながめるとどれもが一角の趣である。そして、掲句からも秋櫻子が書に無関心ではなく、むしろ重きを置いていたことが覗える。
ここまで来て、以前、知人から『芝居の窓・水原秋櫻子集』を借用して複写していたことを思い出した。早速、手にしてみるとずしりと重い。秋櫻子の自筆になる百二十七句の作品(色紙):B4版六十四枚とその活字版:同九枚である。同集は昭和五十七年六月刊行、発行者は水原しづ子、制作は東京美術とある。夫人によるあとがきから引く。
芝居好きだった主人が、ふとした事から歌舞伎座の筋書に、その月の出し物を詠んでほしいとの依頼を受けました。(中略)五十四年十二月の大発作以後は、非常に身体が衰え、作句の気力も薄れがちでございましたが、毎月欠かさず作っておりました。(中略)昨年の六月はベッドを直角に立てて、康子が色紙を持ち、私が筆に墨をつけ、息をこらし、書き上げてもらいました。一寸字が乱れて居りましたがこれが絶筆になろうとはー。
しづ子夫人の篤い思いから、一年祭を期して発行されたこの集を見てみると、
顔見世や名もあらたまる役者ぶり 昭44
朧夜の隈取見えてせりあがる 同48
妹山の雛を背山へ早瀬波 同52
老官女お三輪いちめの秋の聲 同56
などの作品は無論のこと、その一句一句に見る秋櫻子ならではの丹誠込めた筆書には、襟を正す思いである。
この件(秋櫻子と書)は、ここから先には進めずしばらく日にちを置いていたところ、先日、千載一遇の文書に出会った。それは、『水原秋櫻子全集』第六巻(俳論)に挿入の「月報11(1978・8)」に掲載された「秋櫻子先生と書」と題した加藤楸邨の一文である。次に引く。
自分で長い間の先生の歩みを見つづけてきてふりかへ
ってみたとき、意外なところで先生の特色がいきてゐるなと思はせられるものがある。それは先生の書である。
楸邨はこのような書出しで、秋櫻子から贈られた『水原
秋櫻子墨筆集』の一枚一枚を味わっての思いを述べる。
「ことば」に生きる秋櫻子芸術をもし「目」に移してみるとすると、これは実にぴったりだなと思った。かうい
ふと多分先生は極めて不満な顔をされるのではないかと
思ふ。先生の「余生なほ」の中の「わが習字歴」は生真
面目な中にユーモラスなものの生きた楽しい文であるが、
その中に「学校を卒業するまで、筆で書いてみて、巧いとも拙いとも思わなかった。まず普通のところかと考えていたが、俳句を作るようになって、短冊に書いてみると、はっきり拙いことがわかった。私と同程度と思われる人でもわるびれずに大胆に書いてあると、見られるものになるらしいが、私のは大胆に書くことができず、わるびれてしまうから駄目なのである。」と言ってをられる。
右は、秋櫻子が自らの書についてどのように思っていた
かを知る上で、まことに貴重である。このようにして楸邨が、秋櫻子の二十四枚の書をながめながらあれこれ考えこんでいると、妻が発言したとある。以下に、続けて引く。
妻がぽつりとかういふのである。「秋櫻子先生の書を拝見してゐると、こんなに真正直で、こんなに巧まない方はないですね。それが先生の類のない気品になって滲み出てくるのですね」。これは私が心の中で考へてゐたことそのままであった。(中略)私が先生の書を見てまづ感じたことは、「大胆に書くことができず、わるびれてしまうから駄目なのである」といふそこのところからでなくては湧いてこない真面目さであり、そのための「はにかみ」が生きてゐるのに惹かれたのであった。(中略)今度の墨筆集を見て文字として最も驚いたことは、若い頃の私が先生にねだって書いていただいたものにくらべるとずっと太く豊かになってゐることである。(中略)戦火に焼かれてしまった往年の先生の書は、もっとずっと小さく 細かったのである。今のものは、肉付のゆったりしたあたたかい筆致で、どの一つをとってみても尖ったもの、歪んだもの、巧んだものがない。たとへば、
ふりいでて雲の中なり桃花村
などは、まったく先生の芸境をそのまま生かしてゐるといふ感じなのである。(中略)実に秋櫻子風そのものであり、書といふものが、本来負はなくてはならないものを素直に豊かに負ひながら、「余生なほ」(註:「余生なほなすことあらむ冬苺」の一句をさす。)といふような老境を行かされたのだと思ふ。
葛咲くや濁流わたる熊野犬
これは活字だけ見てもわかるとほり、かなり激しい動きを秘めた作である。これをさきの「桃花村」の句と並べてみると、いづれもゆったりとして一見択ぶところがないように見えるかもしれない。しかし、どこかちがふ。何度か繰返して見てゐる中に「熊野犬」の方は内の激しさが実にしっかりと抑えられてゐて、静かな動になって滲み出てくるのに気がつくわけである。同一の作り手の作の中にもかうした変化が出てくることは、一字、一句の巧拙などよりずっと根本的なものではないか。
さらに、楸邨は若い頃、秋櫻子の門を叩いたのは、新し
い世界を求めた激しい意慾と情熱に惹かれたためであったことを明かし、次のように続け核心に迫る。
しかしふりかへってみると、もう一つ、大切なものを
見落としてゐたような気がしてならないことがある。そ
れは「はにかみ」を秘めた気品の高い世界、私を含めて
多くの現代人がともすると見うしなひがちな芸の根本へ
の「はにかみ」に郷愁を感じつづけてゐたのではなかっ
たかといふことなのである。
改めて、その生涯の最期まで筆をはなさすことなく書き
遺された『芝居の窓』の一枚一枚の作品に見入っていると、
まさしく楸邨をして深く感じたように、どの作品からも俳
句の境地と書の境地が渾然一体となった、静謐なうちにも
格調の高さと美しさを感じずにはおれないのである。
秋櫻子の書は、類のないあまたの俳句とともにその自ら
の芸をしっかりと形作って見せたのである。
最後に、水原春郎の詠んだ秋櫻子の書に係る作品(「馬醉
木」掲載)を掲げる。
百千鳥八十路の父の筆勁し 64巻(昭63)
田辺 小山寒子氏墓
墓碑銘は父の筆なり野の菫 69巻(平2)
秋櫻子展
墨痕に父の温みや花曇 76巻(同9)
晩年のまろき筆跡うららなり 同
八十路の書力溢るる松の芯 同
父の書に別れ惜しめり春の宵 同
古書店に父の短冊銀杏散る 84巻(同17)
追悼 中村風信子
悼 中村風信子氏
馬醉木一筋五十年『牛の爪』鑑賞
令和二年九月二十七日、中村風信子氏が逝かれた。最期の一句まで「馬醉木」一筋を貫かれた九十五年の生涯であった。ここに、改めて風信子の句集『牛の爪』を鑑賞しながら、在りし日のお姿を偲びたい。
句集『牛の爪』は、氏の第二句集として平成三十一年四月の発行、齢九十四歳の上梓である。氏の第一句集は、同十九年に発行された『種牛』であることからしても、「牛」と縁の深いことは明白である。德田千鶴子主宰が筆を執られた『牛の爪』の序文から引く。
別名「牛の風信子」は秋櫻子が名付け親。生まれ育った三重県明和町は、松阪市も近く常日頃から牛に親しむ機会がある環境でした。牛を詠まれた数々の作品の中でも、特に私が好きな句を挙げます。
牧の牛虹を遥かに濡れてをり
種牛に一番水を汲みにけり
牛小屋に湯気のひろごる福沸
難産の牛に春月とどきけり
農学生牛の首撫で卒業す
貫禄の種牛立てり日雷
本句集には、『馬醉木』に平成十八年六月号から同三十一年四月号まで発表された五百句が五章に分け収載されている。そこで、各章における牛の句を当たることにした。先ずは、第一章の「お木曳」に十六句、以下「里神楽」に二十二句、「像の鼻」に二十三句、「おらが春」に十二句、「葱坊主」に十四句掲載され、その合計は八十七句を数え、全体の十八㌫にあたる。まさに、秋櫻子をして「牛の風信子」と言わしめた面目躍如たるものがある。本句集の題名は、とことん牛に拘りたいと、
啓蟄や洗へば光る牛の爪
の作品からとられた。
牛に係る作品の主なものを各章ごとに、章題句とともに掲げる。
お木曳の古き街道麦嵐 お木曳
仔牛はや親を離るる草の花
野分あと塩舐めにくる孕牛
牛の仔の呼べば駆け寄る赤のまま
親子して牛の爪切る夏木立
里神楽久に逢ふ友老いしらず 里神楽
福藁を孕み牛にも領ちをり
牛の仔の鼻環を貰ふ夏木立
牛小屋の牛百頭に初明り
牛の角鎌で削るや秋日和
像の鼻ゆるりと伸びて陽炎へり 像の鼻
牛に副ふ勅使の若し賀茂祭
今朝秋の牛の毛並を梳きにけり
花吹雪牧の乳牛うづくまり
仔牛まだ親に寄り添ふ草の花
初恋の人も穏やかおらが春 おらが春
牧閉づる最後の牛の尻叩く
種牛の鼻息かすか霜の朝
孕み牛繋ぐ庭木に梅一輪
撫牛の親子に木の実しぐれかな
葱坊主老いても意地を通しけり 葱坊主
牛売つて馬喰見送る懐手
種牛の角を磨くも牧開
焼印の牛の寄り添ふ走り梅雨
寒日和牛繋ぐ杭深く打つ
氏の「牛」へのこだわりは尋常でない。あとがきに、「子供のころから生活のなかに牛が身近にいて親しんでいたこと」とあるが、それは氏だけではあるまい。昔、牛は農家にはなくてはならない存在で、同じ屋根の下に寝起きし牛の世話は勿論、田仕事などで「牛を自在に扱わなければ男ではない」と躾けられた。思うに氏の場合は、牛に惹かれる氏ご自身が、誰よりも牛に好かれる人だったのではなかろうか。それは氏の人としての優しさであり大きさによると思ってみるが、間違いではあるまい。
牛に係る句に次いで注目したのは、ご両親に係る作品であり掲げる。
母の里土用太郎の餅を搗く お木曳
曝書して父の匂を読みゐたり
母の忌に軒に僅かの芋茎干す
母を呼ぶ声うらがへる葛嵐 里神楽
父の日に苦虫の貌浮かびけり
母に似て八十路の強情いぼむしり
母の忌の芙蓉を濡らす狐雨
母の世の雛に聞かむ母のこと 像の鼻
ちちははの亡き後も棲む嫁が君
ほととぎす五百羅漢に考の顔
海鼠好きの父なしひとり酒を酌む 葱坊主
いかに齢を重ねても、父母を敬い、慕う気持ちは普遍である。
主宰も触れられたように氏は大そうな愛妻家と思われ、妻俳句を掲げる。
山の湯に妻と頒けあふ温め酒 お木曳
おしやれして生きて八十路や棕櫚の花
ははよりも塩を効かせし七草粥 里神楽
椅子の位置変へて二人の十三夜
老いてこそおしやれ楽しむ吾亦紅 像の鼻
同じこと互いに交すちやんちやんこ
母に似て妻のかたくな年用意 おらが春
薄紅の匂ふ老女や梅の花
どの作品にもご夫人への慈愛の念がにじみ出る。一句目と七句目以外は、どこにも妻の語はないが、ご夫人を詠まれたものに相違なかろうと掲げた。
牛に係る作品同様に多いのが、子どもに係る作品であり掲げる。
屈む子のみな掬ひたき金魚かな お木曳
神の子は一日網曳く日の盛
少年の太刀で闇切る里神楽
遠足の子らをはきだす一車輛 里神楽
鞦韆の少年暮色軋ませて
鳳仙花少女さらりと嘘をつく
厩出しや少年牛の尻を押す 像の鼻
をさなごの声の砂場や日脚伸ぶ
さくらんぼ囲みて子らの最初はグー
少年も軒のつばめも巣立ちけり おらが春
新緑や這い這ひの子のすくと立つ
はじめての紅さす少女秋海棠
その中のひとり泣き出す聖夜劇 葱坊主
春泥を跳んで兄弟遊びをり
ぶらんこの少女朝より光こぐ
本句集の作品で子供を詠んだ作品数は、牛を詠んだ作品に次ぐ。私はそれらの句を鑑賞しながら、氏が良寛の生まれ変わりのようにも思えた。良寛は、江戸後期の禅僧であり歌人。越後の人で諸国を行脚の後、帰郷して国上山の五合庵などに住し、村童を友とする脱俗生活を送った。どの作品からも子供を見つめる眼差しの優しさを感じる。その顕著なものは「葱坊主」の一句目、聖夜劇の「泣き出す」子と三句目のひとりきりの「ぶらんこの少女」に向けられた温かい視線である。これは、氏の俳号が、あの春の訪れを告げる甘美な香りと可憐な姿の花、ヒヤシンス(風信子)であることと決して無関係ではあるまい。それはまた、かくも「牛」を愛してやまない氏の人柄とも、しかと繋がるものではなかろうか。
主宰の序でのお言葉「甘党で愛妻家なのも、秋櫻子に似ていらっしゃいますね」から上戸でないことは覗えるが、氏はそれほど量を飲まれなくても、酒がお好きだったのではあるまいか。そこで、酒に係る作品を掲げる。
昼酒に酔へば蛙が目を借りに お木曳
闘牛の喉にビールを流しけり
酒提げて二月礼者の船を待つ
温め酒妻より先に酔ひにけり 里神楽
昼酒に少し酔ひをり白芙蓉
熱燗に正論を説く昼の雨
酒蔵の壁より暮るる冬至かな 像の鼻
獣医へと納八日の地酒かな
種牛を囲みて年酒酌みにけり
車座となりて村人新酒酌む おらが春
一合の酒にご機嫌寒四郎
治聾酒に杯を重ねて卒寿かな
酒下げて裏木戸叩く二月礼者 葱坊主
闘牛の餌に新藁とまむし酒
少しばかり酒を愉しまれる氏のほのぼのとした様子が伝わる。かくもよき酒を嗜まれる氏と盃を交わしたかったと思うのは、一人私だけだろうか。
次に、これまでの氏の九十五年にわたる厳しくも豊かな人生の重みと深みを感じる作品を掲げる。
仁徳陵幾世色なき風の吹く お木曳
曝けり一兵たりし日の一書
青春を変へし八月十五日
千年の礎石の温み竜の玉 里神楽
潮の香の砲台跡や花すすき 像の鼻
兵たりし友の墓標や草の花 葱坊主
先の大戦の終戦前後、氏の齢はちょうど二十。その青春時代はまさに戦争の世と重なる。二句目、三句目の語るところは、読む者の胸に迫る。最後の句、幾度となく戦友の墓前にたたずみ、氏は何を思い、何を願い今日まで生きて来られたのだろうか。大戦における戦没者数は、三百十万人。うち軍人軍属は二百三十万人にのぼる。氏はその後の七十五年をひたすら、国に殉じた尊くも若い、あまたの御霊を仰ぎ且つ胸奥に生き抜いて来られたのではあるまいか。「昭和」は、いよいよ遠くなるばかりである。
あとがきから引く。
俳句とは七十年以上のお付合いですが、俳縁と言うか俳句道の一つで
ある人々との関わりが私の人生を豊かにしてきてくれたように思われま
す。先師水原秋櫻子先生、水原春郎先生、三代目德田千鶴子先生の背中
から多くのことを学びました。齢を刻むのは楽しいことだと思える今日
この頃です。
寒月光馬醉木一筋五十年 里神楽
秋櫻子の墨や硯や秋惜む 像の鼻
くつきりと虹の浮べり群青忌 葱坊主
一句目、氏の馬醉木初投句は昭和三十四年四月、三十五歳の時とのことからしてうなずける。今や、このような句歴の人は少なくなるばかりで、只々頭の下がる思いである。二句目、三句目は先師への敬慕の念が籠る。
晩年の氏の穏やかな暮らしぶりを醸し出す作品三句を掲げる。
寒牡丹咲かせ余生の豊かなり 葱坊主
蛇穴を出づるや残る友僅か
花菜漬少し食欲進みけり
氏は毎年の馬醉木「新年俳句大会」は勿論、各地での「地方例会」や「鍛錬会」などいかに遠方であっても必ず顔を出され、その若々しいお姿にはいつも元気と勇気をいただいた。氏が最期まで作句を続けられたことは、馬醉木九月号(第九十九巻第九号)の作品にも読み取れ、次に掲げる。
虹
群青の海に解けゆく百合の花
吾に向き鉄砲百合の開きけり
虹はるか反芻長き牧の牛
羽抜鶏一気に走る雨上り
斑猫と湖見ゆる坂登りをり
最後に、『牛の爪』の序に詠まれた主宰の作品を掲げる。
その生の光まばゆきヒヤシンス 千鶴子
中村風信子氏のご冥福を衷心よりお祈り申し上げる。
令和二年九月 秋高き日
今田 清三
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馬醉木誌創刊 100周年
令和3年
100周年基金について
馬醉木俳句会100周年に向けて
コロナウイルス禍の中、皆様の心身の管理のご苦労は如何ばかりかと、
お察し申し上げます。
その中にありまして、馬醉木人として一条の大いなる希望と光を見出すべく
2021年(令和3年度)に馬醉木句会は100周年を迎えることとなります。
困難な環境下ですが、馬酔木会員はオール馬酔木の心意気を以て100周年の
祝いと記念事業を実行してまいります。
100周年を記念して馬醉木人としての自覚と誇りを高めるべく充実を
図ってまいります。
そのためにも是非、会員皆さまのご協力と資金援助、ご寄進のお願いを
申し上げます。何卒、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
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馬酔木誌上に支部名、ご芳名を掲載させていただきます。